「信濃の国」の秘密 -1-

信州人なら誰もが歌える「信濃の国」。
あなたは何番まで歌えますか??

信濃の国

一.信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聲ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し 松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき

二.四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳 浅聞は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり 流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川 南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり

三.木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し 民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ 細きよすがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり

四.尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚の床 木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋 くる人多き筑摩の湯 月の名にたつ嬢捨山 しるき名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる

五.旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も 春台太宰先生も 象山佐久間先生も 皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく 山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず

六.吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山 穿つ隊道二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

楽曲制作者について

浅井 洌  県歌「信濃の国」の作詞者

嘉永2年((1849)11月24日~昭和13年(1938年)2月27日

幕末期の松本藩士、明治から昭和初期にかけての教育者。旧制中学教員などをへて、明治19年(1886年)長野県師範学校教諭となる。

レツ→明治5年の戸籍にあるルビ
きよし→県歌制定時の遺族証言

北村 季晴(すえはる)  

明治5年(1872)4月16日~昭和6年(1931)6月17日

明治5年(1872)14代将軍徳川家茂の侍講を務めた漢学者北村季林の子として東京府銀座に生まれる。

東京音楽学校から青森県師範学校を経て長野県師範学校に赴任し、明治33年(1900)に浅井洌が作詞した「信濃の国」に曲を付ける。

季晴が付けた曲は2年前に依田弁之助が作曲したものに代わって好評を博した。

依田弁之助の「信濃の国」

信濃の国に最初に曲を付けたのは依田弁之助でした。
北村季晴が曲をつける2年前の事です。
北村版とはメロディが異なり、歌詞も異なる箇所があります。

県歌「信濃の国」について 

「信濃の国」は、明治32年(1899)に長野県師範学校教諭の浅井洌(きよし)が作詞、翌明治33年(1900)に同校教諭の北村季晴(すえはる)が作曲しました。

当時は教育の場にも日清戦争の影響が及んでおり、信濃教育会が戦争とは離れたテーマを教材とすることを目的に長野師範学校の教諭に作成を依頼したもので、「地理歴史唱歌」6作品の中の1つでした。

明治33年(1900)10月に行われた師範学校の運動会で女子部生徒の遊戯(ダンス)に使われたのが「信濃の国」が初めて披露された場であるといわれています。

その後「信濃の国」は、師範学校の卒業生が県内の学校で生徒に教えたことにより各地に広がり、歳月を経て、親から子へ、子から孫へという形で歌い継がれてきました。

昭和41年(1966)に県章やシンボルを決定した際、「信濃の国」を県民意識の高揚のために県歌に制定してはどうかという気運が盛り上がり、昭和43年(1968)5月に「信濃の国」が県歌として制定されました。

(長野県のホームページより)

こうして依田弁之助作曲では広がらなかった「信濃の国」が、北村季晴によって曲をつけられたことでいっきに広がりを見せます。

様々な場所、様々な行事で歌われることで世代を超えて歌い継がれ、信濃の国は信州人はみんなが歌える!という曲になっていきました。

「信濃の国」エピソードあれこれ

◆昭和23年(1948)分県論が広がり県議議場内が殺気だった時、傍聴席から「信濃の国」の大合唱が起こり、それが機縁となって分論県は流れた。

◆昭和43年(1968)の白馬でスキー国体の開会式の時「信濃の国」を演奏したところ、3千人ほどいた観客が一斉に立ち上がり一緒に歌い始めた。県外からの選手や観客はびっくり。

◆平成10年(1998)に開催された長野オリンピックの開会式で、参加した各国選手団が入場する際、その国に因んだ楽曲が演奏されたが、日本選手団の時には「信濃の国」が奏でられた。すると、会場から大合唱が巻き起こった。

◆高校野球甲子園大会で長野県の高校が7回の攻撃の時、アルプススタンドからの「信濃の国」の大合唱が始まると、相手校は唖然となる。

◆県外で歌う「信濃の国」は感慨深い。全国の県人会はもとより、ブラジルの県人会でも歌われている。

「信濃の国」の秘密 -2-につづく。

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